冬の冷たい風が何処か遠い所へ去っていっても、桜は花を咲かせなかった。人間はまだ来ていない。さくらはちょうど満開の桜を見せたいと思った。

 周りの木々が芽吹き、それぞれの花を咲かせ、散らせ。それでも人間は来なかった。さくらはただ蕾のまま待っていた。

 さくらは思う。人間が来ない理由を。見えない自分に愛想を尽かしたのかもしれない。何故見えないかは知らないが、長く姿を見せなかったのがいけなかったのかもしれない。

 さくらは思う。人間のしわがれた指先を。まるで桜の幹のような皮膚に、握れば折れそうな指。顔にも随分と皺が多く出来ていたように感じる。

 寝転がったままで、さくらはゆっくり目を閉じた。来ないものは来ないのだ。諦めが悲しみを多く含んで胸を打つ。さくらは目を開いた。

 桜色の瞳から、大粒の水が溢れ出した。さくらはこの意味を知らなかったし、それよりも枯れてしまうという思いが強かった。一筋口に届いた水は、雨水と同じ味がした。

 さくらは目を閉じる事もしなかったし、水を止めようとも思わなかった。流れるものを止めるのは不自然だと思った。川も雨も、流れるまま流れているのだから。

 全身で繰り返す呼吸は重たく、枝があちこちで軋みをあげる。湿った花がじっとりと重さを増し、それぞれがくっついて離れなかった。

「………いた…」

 最初、落ちた言葉が誰のものかわからなかった。さくらは濡れたままの瞳をゆっくりと上げ、かかった影に向けた。逆光が眩しくてよく見えなかったが、さくらはすぐに理解した。

 目の前に、崩折れるようにして置かれる膝。伸ばされる手はすっかりしわがれて、乾いてささくれだった指先がさくらの頬を撫でた。

「ごめん、こんなに待たせて」

 昔の面影など何処にもなかった。掠れた声は掠れた息と一緒になって出てきて聞き取りにくい。それでも、さくらは起き上がった。軋む枝もお構いなしだった。

 さくらはどうにか口を開いたが、やはり声は出なかった。それでも笑ってくれる表情は温かくて、さくらの瞳からはもっとたくさんの水が落ちた。

「ごめんね」

 か細く口にする言葉があまりに頼りなくて、さくらはその身体を必死になって抱き締めた。腕から幾つか枝が折れる音が響く。

 人間は困ったように笑って、さくらの頭を何度も撫でていた。