その日以来、人間は何度も桜を訪ねた。幹に寄りかかって腰を下ろし、さくらを待っているようだった。

 桜は何もせずに立っていた。身を寄せた人間の温かさは気になったが、桜はただ梢を揺らしていた。蕾はもう大分開いてきていた。

「来ないな」

 人間は何日か経った頃にぽつりと呟いた。地面に落ちた、以前はさくらであった花を一つ摘んでくるくると回しながら。

 桜は人間がさくらに会おうとしているのだとようやく気付いた。好奇心か、もしかしたら捕まえるだとか退治するだとか、そんな事かもしれない。桜は鳥を嫌いなように人間を嫌いになって久しかった。

 桜の梢に揺れる蕾は少しずつ花になっていく。陽光は温かく吹く風も同様で、すっかり春の兆しが現れていた。もう、満開になってもいい頃だった。

 けれど桜は咲けなかった。いつもなら咲いている蕾は、その一歩手前で動きを止めていた。咲くには楽しくいなければならないのだ。桜は今楽しくないのだ。この人間がいるから。
 ふと桜は人間が此方を向いている事に気付いた。温もりが動いて、隙間に入る風は温かいが冷たく思えた。黒い瞳が二つ、此方をじっと見つめている。

「元気ないね。もう他の桜は咲いてるのに」

 お前のせいだと言ってやりたい。そう思った瞬間には、枝が花が動いていた。ざらりとほんの少し不自然な揺れが起こり、桜はさくらになった。人間は、目を丸くしていた。

 枝の上に腰掛けたまま、さくらは何も言えず黙っていた。さくらには声がなかった。声がない事を悲しいと思いこそすれ、苛立った事などなかった。さくらは眉を寄せていた。

 人間は随分の間を黙りこくっていたが、突然ぱっと笑顔を浮かべた。初めて話しかけられたのと同じように。

「こんにちは」

 さくらは、ほんの少しだけ目を丸くした。

「お話しようよ」

 人間が手招きをして、そのまま手を差し出した。さくらの身体は固くて、少し動くのにも一苦労だった。枝から下りると、上手く着地出来なくてふらついた。人間は、それを支えてくれた。

 さくらは声がなかったが、固い枝をどうにか動かしてほんの少し目を細めた。桜が感じた温かさは、さくらになるとより温かかった。

 陽光の当たる梢の先から順々に、桜はゆっくり色付いた。