寒さも落ち着いて陽光の温かさが染み渡る春の日、桜は人間になって自分の蕾を見て回っていた。太陽の当たる場所ごとに開きそうになる蕾の隙間からは薄い桜色が見え始めていた。
何処からか吹かれて絡まった葉を取り除いていると、視界に何か動く物が見える。それはどうやら人間のようだった。
ああ、また来たのか。そうして自分の姿を見て、某かを叫びながら踵を返して走り出すのだ。もう慣れていたから、さくらは桜を下りずに枝に座っていた。自分が何かをしなくても、大体の人間は引き返す事を知っていたからだ。
人間は目が悪いのか、大分近くに来てもまだ逃げない。確かにさくらを見ているようなのに、ただ笑って近付いてくる。さくらは困った。このまま追い返していいものかと悩んだのだ。
「こんにちは」
桜の下にようやく辿り着いて、さくらを見上げながら人間は言った。さくらは何も返さなかったし、返す事も出来なかった。なにより誰に言ったのかがわからず、辺りを見回した。
人間は笑った。笑って軽く手招きをした。辺りに他の人間がいる様子はない。いるはずがないのだ、全てさくらが追い返しているのだから。
「お話しようよ」
さくらはやっと、ほんの少しだけ目を丸くした。枝は固くて、とても驚いたのにそれだけしか動かなかったのだ。人間はまだ手を差し出している。
桜についた手が震える。さくらはこんな言葉も表情も知らなかった。たくさんたくさん考えてきたのに、さくらは知らなかった。知らないものは怖かった。
さくらはそのまま桜に戻った。人間目掛けて枝や花がばさばさと落ちたが、桜はじっとして風に梢を揺らすだけだった。
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